TUAD OB/G BATON
世の中の不可思議・奇々怪々を求めて
黒木あるじ
(怪談作家)
第11回目はフリーアナウンサー・香坂あかねさんからのバトンを、怪談作家・黒木あるじ(くろき・あるじ)さんにつなぎます。
黒木さんは、デザイン工学部生産デザイン学科に入学後、1999年に情報デザイン学科に転科しました。ゼミ担当教員は加藤至(かとう・いたる)先生でした。
思春期に伸びた天狗の鼻は、ポキリと折れた…
芸工大での思い出を教えてください。
正直に告白すると、私は決して「良い学生」ではありませんでした。
思春期をこじらせたすえ、己の才能を過信して芸術系大学を選択したのです。そんな人間がデッサンや製図などコツコツ努力してきた人間に敵うはずもありません。たちまち打ちのめされ、天狗の鼻をポキリと折られました。「才能がある人間ほど真摯に努力を続ける」という事実を学んだことが、学生時代最大の収穫だったと思います。
生産デザイン学科(現・プロダクトデザイン学科)から情報デザイン学科(現・映像学科)へ転科していますが、それも“天狗の鼻ポキリ”に関係していますか?
転科したのは天狗の鼻が折れてしばらく経ってからでしたね(笑)。
ビデオカメラの筐体をデザインする実習だったか、あるいはデザイン用にビデオカメラをいじる必要があったのか、今となってはきっかけを忘れてしまいましたが、とにかく映像を撮影する機会があったんです。そこで映像を制作することがすこぶる楽しかったのを覚えています。作品であり、商品である。表現であり、制作である。その魅力に取り憑かれ、一年越しで転科を果たしました。ただ、単位は取り直しになりますから、卒業には6年かかってしまいました。いまだに親からは恨まれています。
作家活動に至るまで、カメラマンとしてお仕事されていますが、民俗芸能や伝統芸能、東北文化研究センターの記録撮影など、初期はずいぶんと土俗的な世界の撮影していたようですね。
最初の就職先の山形マルチメディア開発推進協議会では、映像アーカイブが注目されはじめた時期でもあったため、有名なお祭りや民芸品に限らず、集落の小さな祭礼や商業化されていない工芸まで取材できたことが、後の活動にプラスとなりました。
東北文化研究センターでは、記録撮影役として同行したパキスタンやイランなどシルクロードの国々を巡ったことが印象に残っています。猛暑なのに過ごしやすい気候、混沌としたマーケット、不安定な政情に揺れる人々など、あの時に目にした光景は今も忘れ難いものばかりです。
表現するとは、創るとは、考えるとは…様々なことを学ばせてもらった貴重な時間です。
その後、カメラマンから執筆業へ転身されていますが、もともと“書く”ということがお好きだったのですか?
幼い頃から“本の虫”でしたが、自分が書き手になることは全く考えていませんでした。それでも<門前の小僧習わぬ教を詠む※>ということわざのとおり、卒業後は地方紙などから寄稿文を依頼され、あまり臆することなく書いていました。無知ゆえの無茶が功を奏したようです。
そんな中、ひょんなきっかけから怪談実話の書き手としてデビューすることになり、無我夢中で執筆を続けているうちに、気が付けば専業作家になっていました。
※ふだん見聞きしていると、いつのまにかそれを学び知ってしまう。環境が人に与える影響の大きいことのたとえ。
世にあふれる「怪」を集めて
執筆活動について教えてください。
最近は小説やエッセイも手掛けていますが、私の描いている作品の多くは「怪談実話」と呼ばれる、不可思議な出来事を当事者やその家族から聞き取り、文章にしたためるジャンルです。子供の時から怪談や怪獣、妖怪など「怪」を冠するものが大好きだったのが幸いし、持続できているように思います。
これまで執筆された作品の中で、印象に残っているものを教えてください。
東日本大震災の年に刊行した「無惨百物語 ゆるさない」(メディアファクトリー)でしょうか。被災地の幽霊譚を収録したことで忘れがたい一冊となりました。
怪談とは「旅立った死者の物語」ではなく、「残された生者の物語」なのだと気づかされました。
東日本震災のあとに幽霊譚を聞いて回ることは、とてもセンシティブなことであり、被災された方の悲しみに触れることでもあったと想像しますが、実際にはどうでしたか?
正直、悩みながら取材を続けました。現在までに200話ほど震災にまつわる怪談をストックしていますが、発表できたのは10編ほどです。やはりセンシティブにならざるを得ない題材だとは思っています。
取材の際に気を付けていたのは、決して自身が行っている行為に「前向きな意味」を見出さないことです。「話すことによって救われるんだ」とか、「語った人も癒されるんだ」などという言葉は、一見するともっともらしく聞こえますが、実際は単なるこちら側の弁明です。私はカウンセラーでも霊能者でもなく、単なる「オバケの話を好奇心で集める、うさんくさい輩」なのです。それを肝に銘じ、真摯に耳を傾けるよう努めました。
怪談を集めるときはどのように方法で行っているのか教えてください。
通常は、人づてに「不思議な体験をした人」を紹介してもらったり、あるいは酒場や集落におもむいて「怖い話はないですか?」と聞き集めています。ユニークなところでは、芸工祭の卒業生ブースで<怪談売買所>を催しています。他の怪談作家の方が発案したシステムで、道行く人から100円で怪談を買い取り、私の怪談を聞きたい人には100円で販売するのです。「さぁ話すぞ!」と身構えている方からは出てこないタイプの話が数多く聞けるのが非常に面白かったですね。
ここ一年はオンライン取材が大半ですが、コロナが収束したら街へ繰り出そうとウズウズしています。
執筆活動をする上で心がけていることについて教えてください。
気が緩みやすい性格ゆえ、油断するとすぐに文体や構成などテンプレートに陥りがちです。それを自覚し、常に新しい試みを怠らないよう心がけています。その全てが成功している、と言い難いのが心苦しいですが…。
自分が一読者であったころの気持ちを忘れず、それでいて個人的な嗜好で書かぬよう客観性を失わず、今も筆を走らせています。
“コロナ禍”という時期がもう1年も続いています。この環境下での執筆に心境の変化などありましたか?
昨年は対面形式での取材はほとんど行えませんでした。デスクワーク中心であまり影響を受けなかった自分ですらこの有り様ですから、多くの人は本当に大変な日々を過ごしているのだなと感じています。
「不要不急」の小説や怪談は、世の中が平穏であればこそ楽しんでもらえるもの。一朝一夕ではどうにもならないと承知しつつ、一日も早く収束してほしいと願うばかりです。
脱ステレオタイプの“東北”を書きたい
最近楽しみにしていること、興味のあることなどを教えてください。
怪談を聞き集めるうちに、山形の伝承や風習にも数多くの「怪しい話」があることに気がつきました。最近は市町村史や地元保存会の冊子などを集め、そこから拾った怪談奇談をアーカイブするのがもっぱら楽しみです。
ゆくゆくは一冊の事典にまとめることができればうれしいな、と考えています。
どうやら、どこまでも「怪」に絡んだ人生のようです。
今後の展望についてお聞かせください。
生まれ育った<東北>を舞台に物語を書きたいな…と最近は思っています。主観ですが、「自然が豊かで人々があたたかくて」という、東北のステレオタイプとも言えるイメージは、東北の外側の人が持つもので、内側の人間もそれを表層的なイメージとして利用してきたように感じています。この作品は、言葉を選ばず表現するならば“東北の人間が怒りだすような”作品になるよう、構想を練っている最中です。
成功するかどうかは未知数ですが、新しいチャレンジはいつもワクワクさせてくれます。
最後に、東北芸術工科大学で学ぶ在学生のみなさんへ、メッセージをお願いします。
<人間万事塞翁が馬>という諺がありますよね。「人間、何が幸福で、何が不幸かわからんぞ」的な意味です。実はね、あれって本当なんです。
2005年、当時私の暮らしていたアパートは火事に見舞われています。二日間留守にしている間に自分の部屋だけが全焼し、他の部屋は無傷。おまけに火元は数日前にリサイクルショップで買った古い能面をかけていた壁際。
当時は「なんて災難だ」と落ち込みましたが、それから4年後、その出来事を記した掌編が怪談文学賞で特別賞に選ばれ、私は怪談作家としてデビューします。
そう、あなたの身に降りかかったアクシデントは将来の糧かもしれないのです!人生最大のピンチが人生最大のチャンスになることもあるのです!
だから決して何が起きても諦めたり嘆いたりせず、コツコツと歩みを続けてください。(火の元にはくれぐれもご用心ください。)
加えて、怪しいモノを出来心で買うのはお勧めしません。焼けます。燃えます。憑かれます。
編集後記
「転んでもただでは起きない人」
黒木さんは覚えていらっしゃらないと思いますが、校友会事務局になる前の校友会15周年記念マルシェの際に、怖い話を2つほど買っていただいたことがあります。
子どもの頃から出産前まで、感じてはいけないものにチャンネルがあってしまっていた私は、一人暮らしのアパートで毎晩女性に添い寝されたり、ホテルの部屋に入った途端に吐いたり、まぁほどほどに体験しておりました。(現在、私は無事なので怖いオチはありません)
そんな感じのため、黒木さんの著書は避けております。申し訳ありません。
もしも私に、そんな話を率先して集めて、文章に起こしている友人がいたら「寄ってきちゃうからやめてっ!!」と、中断を促したいところです。
しかしながら、黒木さんはそれを生業としている。デビュー作の題材が自分の家を燃やした能面だと言うのだから、転んでもただでは起きないぞ!という熱意を感じます。
現在構想中の“東北の人が怒りだすような”作品がどのような仕上がりになるのか、山形在住20年超えとは言え、生粋の東北人ではない私は、どのような気持ちで読み進められるのか、楽しみにしています。
黒木さんがこれからも怪談作家としての道を平穏無事に進まれることを祈っています。(能面の件もありますので)
最後に、私も読者のみなさんにお伝えします。怪しいものを買うことはお勧めしません。出会い頭にゾワッときたものは避けてください。
校友会事務局 カンノ(デザイン工学部生産デザイン学科 卒業)
TUAD OB/G Batonについて
東北芸術工科大学は1992年に開学し、卒業生は1万人を超えました。
リレーインタビュー「TUAD OB/G Baton」(ティーユーエーディ・オービー・オージー・バトン/TUADは東北芸術工科大学の英語表記の略称)はアートやデザインを学んだ卒業生たちが歩んできた日々と、「今」を、インタビューと年表でご紹介していきます。