柳のように生きて、ワクワクを生みだす

10期生 2021.12.10

後藤田剛

(TAGGER)

第16回目は森田アルミ工業株式会社 取締役 研究開発部長・宇野健太郎さんからのバトンを、後藤田剛(ごとうだ・つよし)さんにつなぎます。
後藤田さんは、デザイン工学部生産デザイン学科に2001年に入学しました。ゼミ担当教員は上原勲(うえはら・いさお)先生でした。

自分の勝てる土俵=デザイン

芸工大での思い出を教えてください。

学生時代はただただ楽しかった。
学生という立場で、いろいろなことをしました。その分、いっぱい怒られたし、同じくらいたくさんの人に支えてもらいました。当時迷惑をおかけした方には申し訳ないと思っています。
また、両親には迷惑をかけましたが、かけがえのない経験を得ることができて本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

学生生活の中で印象に残っていることはありますか?

学食に雀卓を持って行って時間の許す限り麻雀をしたり、生産棟の中庭で教授や先輩後輩を誘ってBBQをしたとか、そんな他愛もないことが一番懐かしく感じることですね。
なぜか私が教授陣にカンパをお願いする役で「みんなお腹が空いているのでお金下さい。」的なことを言ってお金集め、食べて飲んで騒いで、そのまま学校に泊まったりすることもありました。
当時は先輩方から受け継いだコタツやベッド、冷蔵庫、テレビなどが学生の部屋にあったので、とにかく元気に遊んでいました。

当時は施設利用申請を出せば終夜利用できたので生産棟はそこで生活できるくらいの空間でしたよね。お世辞にもキレイとは言えない状況だったこと、私も覚えています。では、芸工大に入学してデザインを学ぼうと思ったきっかけを教えてください。

建築士の父が高校時代に「これでも見とけ」を手渡してくれたCasa BRUTUSでヘリット・トーマス・リートフェルト(1888-1964)のレッドアンドブルー(1918年)に魅了されたのが大きなきっかけです。そもそも頭の良い方ではないと自負していたので、そんな自分でも勝てる土俵はどこかと考え、知識ではない感覚で勝負できるアイデアやデザインならそれが可能かもしれないと思い進んでみました。
とは言え、いろいろ経験を重ねた今はデザインは表現の一部であると理解し、勝ち負けではなく、人の役に立つこと、人を幸せにすることをどうやって作るか、を常に考えています。それはほとんどの仕事に共通しているというか、根本的ことなので特にデザインに固執する必要がないんだな、という考えに至りました。

大学入学後、学業の方はいかがでしたか?

大学入学当時の自分は将来デザイナーになると信じて疑わなかったので、先輩の卒制発表の初回に参加して生意気にも「レベルが低くて残念です。もっと頑張ってください」などと調子に乗って発言してしまいました。その時期の4年生は就活で大変なことに、自分が同じ立場になって初めて気づきました。

自分の卒制は“そんな事を言ってしまった自分”との意味の分からない戦いがあり、とにかく後ろ指をさされないように必死こいてやりました。最終的にはなんとか賞を頂くことができて「生意気な発言も悪くはなかった」と勝手ながらに思い返しています。学業は決して優秀な方ではなかったので、卒業させていただき感謝です。

卒業式に最初で最後の地毛ちょんまげです。人生初のエクステ、美容師の人も人生初のちょんまげ、いろんな初めてを背負って卒業しました

イタリアで気付いたデザインとの向き合い方

大学卒業後、イタリアへ渡っていますが、その理由を教えてください。

当時、インダストリアルデザインの業界ではミラノサローネに出展する事が登竜門と言われていたので、まずはイタリアに行くことにしました。
指導教員だった上原教授には「そういう人を何人も見てきたけど、誰も行ったことがないからやめなさい」と言われたのを覚えています。そういう風に言われると俄然やる気が出るタイプなので「なんだこのやろう。絶対に行ってやる!」と決意しました。今思えば、私のそういう気質を知っていた上原教授に上手くコントロールしてもらったように感じます。感謝ですね。

卒業後、1年間の語学留学ビザを取得してイタリアのミラノへ行きました。6ヶ月語学学校へ通い、その後デザイン事務所でアシスタントをさせてもらい、結局3年間イタリアで生活しました。
正直に言うとすごく大変な生活でしたが、たくさんの人に支えていただきました。

イタリア留学時代

イタリアでの生活の中で、心境やデザイン感など、何か変化はありましたか?

絶対に「有名なデザイナーになる」と決め、渡伊しましたが、「デザイナーになること(デザインする)」から、物や事を創出する(価値を作る)に変更しました。
というのも、デザイナーの仕事は受注し納品する商品開発のほんの一部だと考えるようになったからです。

デザインだけでその商品に関わる人へどこまでの幸せを作ることができるのだろうか?という疑問が自分の中に生まれたこと、デザイナーと取り巻く環境は経年変化していくと感じたからです。
メーカーのプロデューサーも自分と歳の近いデザイナーと 、自分の考えを言いやすい関係性を築きながら仕事をしたいという気持ちがありますし、商品全体のバランスを見て総合的な判断を下します。同世代で同じ価値観、同じゴール目線を持って仕事を進めていき、年をとっていきます。

ここからは妄想ですが、世代交代した時に、若い頃一緒に仕事をしたプロデューサーも上司という立場になり、「ここのデザイナーさん使ってあげてね」なんて言われながら、若い年代の人が価値観の違う自分と仕事をする。そう思うと同じように長く仕事を進められるかどうかなんて、どこにも保証がないんだな、と思いました。
本当にデザインについての実力やブランドを培っていないと仕事はおろか、世間からも忘れ去られてしまうのではないか?という危機感を感じました。

その時にもし家族がいたらどうなっていくんだろう…と真剣に悩み、考えていくうちに、デザイナーになる(デザインをする)のではなくて、メーカーのように商品の価値(トータルの価値をつくる)を製造から販売まで関わりたい、という思いが日に日に強くなっていき、“デザイナー”であることをやめました。

商品の向こう側の幸せまで見据えて

イタリアで得た体験はデザイナーになると信じて疑わなかった後藤田青年を方向転換するほど経験となったのですね。方向展開した理由が将来を見据えた現実的なもので驚きました。現在は日本に帰国されていますが、ベトナムではどのようなお仕事をされていたのですか?

ベトナムでは日本のキャラクターの著作権を扱うTAGGER Co., Ltd. という会社で、映画放映やイベント、商品販促など、現地ベトナムのキャラクター権利窓口として、ベトナムにいる人に向けてワクワクとドキドキを作る活動をしていました。
日本と違い、ベトナムはキャラクター市場が未成熟です。自分たちの一挙手一投足がメディアや商品を通じ、市場にインパクトを与えることができることにやりがいを感じています。
うまくいかないことだらけで怒られたり大変なことはあるけれど、こんなに経済の伸びているベトナムでの仕事はいろいろなことに挑戦でき、自分も成長できたと思います。自分の作ったキャラクターではないけど、自分が手掛けた商品を抱いて寝ている子どもを想像しただけで、もうこれ以上ないほどに幸せを感じます。

著作権については対・海外はもちろんですが、国内でもデリケートな部分があるなと感じられることを目にします。これまで後藤田さん自身はどのように捉えて取り組んできましたか?

ライセンスビジネスの仕事は簡単に言うと日本の原作者さんが作り出した作品を、現地ベトナムのメーカーさんが自社の商品に使用したい場合に私たちのような会社が、メーカーさんと版元さんの間に入って調整する仕事です。ベトナムと日本、双方の事情を理解し、消費者さん含め全ての人にとって良い方法を見つけながら想像力を働かせて動かなければいけない仕事です。日々いろいろな仕事の問題を解決するにはクリエイティブな能力が必要で、デザインやモノづくりだけがクリエイティブな能力を必要とするのではないと教えられました。

イタリア生活を終え、自分の方向性が明確になった時に、日本で働くという選択肢はなかったのですか?海外に拠点を置いた理由をお伺いしたいです。

実は日本で働きたいと思って帰国したんです。就職活動していたのですが 情けないことにメーカーに一つも受かることができなかったんです。どうしようもなく途方に暮れていた時に、ミラノで知り合った大先輩に相談したところ、ちょうどベトナムでキャラクター商品開発を募集している会社を紹介していただいた、という経緯です。英語を学ぶ環境に身を置けると思って決断しました。

日本に帰国されてまだ日が浅いですが、久しぶりの日本での生活はいかがですか?

2021年7月からベトナムホーチミンではロックダウンが始まりました。強制社会的隔離の最中に外出すると刑事罰になる非現実的な生活を送っていた後の帰国です。
約14年間海外をうろついていた私には本当の意味で浦島太郎状態です。

帰国しての印象としては人が少ない。特に若者が少ない。ベトナムは平均年齢が30歳で、歩けば若い人に当たる若者だらけの国です。日本は本当に少子高齢化なんだなーって実感しています。
あと、どちらの国も良いところはありますけど、日本は肌に合うのか美味しくて美しいと日々幸せを感じております。あと2年ぶりに妻にも会うことができました!

少し落ち着きをみせているコロナ禍ですが、どのようなことを思って日々を過ごしていますか?

100年に一度の未曾有の出来事コロナでいろんな方が大変な思いを経験していると思う。でもそんな出来事も長い人類史の中では一種のトレンドとして天然痘のように人々の意識から時間と共に薄れ忘れ去られてしまうんだろうなと思っています。ただ、人はそんな中にも失うものもあれば得ることもあるんだと思います。
私が得たことは目に見えない事のほうが大事なことが多いということ。人と人との絆や大変なときこそ見える人の深部みないな。身近なところで言うと「あの店やあの人を応援したいから買おう」という行動が最近は多くなっていたように感じます。目に見える表層的な部分を作ってきたところはコロナで淘汰されえてしまったように思います。
奇しくも目に見えないウイルスによってね!

たくさんの人の幸せと笑顔をつくる仕事を

日々の楽しみにしていることは何かありますか?

ベトナムにいた頃ですが、肉を塩漬けし燻製を作ったりしていました 。もともと加工肉が好きで、市販の商品が体によくないとは知っていたこともあり、自分で作りだしたら簡単に美味しいものに仕上がり、友人に売りつけたり、知り合いの飲食店などに卸すことができるまでになっていました。

あとは、月に一回、5,000円くらいの食べ物をネットで注文し、妻と私の実家の両親に勝手に送っていました。勝手にやっていることは期待されないし、自分たちも義務感がないので何を送ってもいいと思いながらも、毎月何を贈るか悩む時間が、妻や私の家族を知る良い機会になり、いろいろな発見もありました。さらに送った物が届けば会話をする良い機会にもなり、私も妻も親孝行者として親戚一同から評価されるという超特典付き!(笑)お金では買えない価値をちょっとのお金で得ているかんじです。親孝行のチリツモです。

では今後の展望について教えてください。

いろんなやりたいことがあります。
今までお世話になってきた人、場所へ自分ができることやどうありたいかのバランスをとりながら、少しずつ役に立てることを考えて実行していきたいと思っています。もはやモノがいらない世界に私たちはいると思いますが、必要なモノやコトを見つけてワクワクやドキドキ、幸せを感じてもらえることをやりたいです。まずはベトナムのコーヒーやカカオを通じてベトナムに還元しならが、いろんな人に笑顔を作れるような事をしたいと思います。

最後に、東北芸術工科大学で学ぶ在学生のみなさんへ、メッセージをお願いします。

メッセージではないのですが、もし目の前に今の15年前の自分がいれば「お前が思ってるほど社会人は勉強しなくて良いわけじゃないぞ」って言うと思う。
学業は大学で終わりと思っていた自分に、社会に出てからの方が圧倒的に勉強をしなければいけないこと(落胆するな~)、そして意外にもそれはそんなに嫌じゃないこと。

それは自分から必要と知って能動的に勉強し、思っていた以上に自分が成長する事への楽しさや嬉しさを感じることができる。だから“やらなければいけないとき”が来るから焦らずそのままのポンコツ状態でいい。結局は瞬間瞬間にできることに一生懸命でいるだけ。そう伝えたいです。

後藤田剛

note: ごとぅー|note
人の笑顔に支えられて人の笑顔を作りたいと思って生きてます。 日々考えていること、思うこと、学んだことをここにアプトプットしていきたいと思います。

編集後記

「ドキドキワクワクを糧にどこでも生き抜いていけそうな人」

この取材の原稿をもらった時、後藤田さんは「柳のような人間」という見出しをつけてくれました。
“柳”とは葉が風に乗っていとも簡単に揺れるように、揺蕩うままに生きてきた人なのだろうか?と思いながら読み進めましたが、いやはや、若き後藤田青年は確かに自由気ままな雰囲気はありつつ、柳の揺れる情景とは程遠い、何とも尖った人だったようですね。

さてでは“柳”とは何ぞや?と思い、調べてみました。
“柳”とは「春早くに芽吹くので生命力のあるめでたい木」また「湿潤を好み、強靭な、しかもよく張った根を持ち、倒れて埋没しても再び発芽するたくましい生命力のある木」と書かれていました。なるほど生命力。それはビシバシ感じました。
後藤田さんという人は“柳”の表面に見える雰囲気ではなく、その本質の方が当てはまるようです。とは言え、その自由さは各所にあったように思うので、その意味では表面上の“柳”も当てはまるのかもしれません。

実はこの取材はまだコロナ禍の収束など見えていない時からはじめており、私の遅筆と、本文中にも書かれていますがベトナムの外出禁止のため後藤田さんが容易に動くことができなかったことなどもあり、ゆっくりと進めているうちに後藤田さんが日本に帰国を決め、ひとまずご実家に戻るという何とも大きな環境変化を迎えたので、当初の取材とは途中で内容を変更することとしました。(長きにわたりご協力いただきありがとうございました。)

後藤田さんは帰国した自分を浦島太郎と例えていました。
物語の浦島太郎の玉手箱には竜宮城でただ楽しんでいた時に過ぎ去った時間だけが入っていただけですが、後藤田さんの玉手箱には日本を離れていた間の経験がぎっしり詰まっている、それはまさしく宝箱です。
詰め込んだ宝物をどう生かして後藤田さんの思い描くワクワクドキドキを育てていってくれるのか楽しみです。
ベトナムという温暖なところから、これから極寒を迎えるご実家に戻っての生活は大変だと思いますが、久しぶりの再会を果たした奥様と幸せな時間を過ごしてください。

校友会事務局 カンノ(デザイン工学部生産デザイン学科 卒業生)

TUAD OB/G Batonについて

東北芸術工科大学は1992年に開学し、卒業生は1万人を超えました。
リレーインタビュー「TUAD OB/G Baton」(ティーユーエーディ・オービー・オージー・バトン/TUADは東北芸術工科大学の英語表記の略称)はアートやデザインを学んだ卒業生たちが歩んできた日々と、「今」を、インタビューと年表でご紹介していきます。