自分が何者であるかにこだわらない生き方

10期生 2021.09.16

宇野健太郎

(森田アルミ工業株式会社 取締役 研究開発部長)

第14回目はRYUSUKE YAMADA DESIGN主宰・山田隆介さんからのバトンを、森田アルミ工業株式会社 取締役 研究開発部長・宇野健太郎(うの・けんたろう)さんにつなぎます。
宇野さんは、デザイン工学部生産デザイン学科に2001年に入学しました。ゼミ担当教員は渥美浩章(あつみ・ひろあき)先生でした。

二人の恩師

芸工大での思い出を教えてください。

人にも、環境にも恵まれていたと思います。
妻も同じ学科の卒業生で、学生時代から私を支えてくれた存在です。もちろん地元の大阪から山形に私を送り出し、いつも応援してくれた親には言葉では言い表せないくらい感謝していますが、彼女の存在無くして今の自分はあり得ません。
そして山形の自然、文化も素晴らしかった。
仲間にも先生にも最高に恵まれた4年間を過ごしました。

宇野さんは渥美ゼミ出身とのことで、ゼミの思い出などはありますか?他に印象深い先生などいらっしゃれば教えてください。

私には「恩師」と呼べる人が二人いて、まずはゼミの担当教員であった渥美先生(現名誉教授)です。
“本物とは何か”、これを徹底的に叩き込まれました。「保守本流でいけ」「世界観をつくれ」「でっちあげろ」など名言が飛び出す、笑いと驚きが絶えないゼミでした。ゼミの後に、誰かがラーメンを食べたいと言い出して、何人かでラーメンを買いに行ったのですが、テイクアウトはやっていませんでした。そこで「年老いたおじいちゃんが最後にここのラーメンを食べたいと言っている」と迫真の演技をしたら快く作ってくれました。ゼミ室に持ち帰ってその話をしたら渥美先生が腹を抱えて笑ってくれました。

渥美ゼミでのもう一つの研究テーマ「魔球」

もう一人は川口幾太郎先生(現名誉教授)です。
川口先生には和太鼓部の立ち上げから4年間お世話になりました。
華やかな舞台も経験させていただきましたが、一番の思い出は日々の練習です。とにかく練習が面白かった!和太鼓部で“技術とは何か”、“基本とは何か”、“成長とは何か”、という一流の考えを学びました。
その“川口イズム”を少しでも他の学生に伝えられないかと思い、体育振興部会の代表になり、自分たちで何かイベントをやろうということで、有志で実現させたのが「サッカー大会」でした。幹部は6名ほどでしたが、スタッフは総勢60名近くいて、参加者も全学年の2割近くだったと記憶しています。最初は数名の小さな想いが、伝播していって大きなうねりになる。自分だけじゃなくて、仲間もスタッフも参加学生も、みんなが楽しそうにしている。これが自分の一番やりたかったことだとわかりました。
居酒屋で隣にいたサラリーマンに心無いことを言われて、悔しくて泣いていた時に、先生は真っ先に飛んできてくれました。一人の人間として大切にしてもらったことで、自分に自信を持てましたし、いつか人を導く存在になりたいと思いました。

川口先生と和太鼓部

実は私も渥美ゼミ出身だったので、その雰囲気はわかります。渥美先生と川口先生、私としては渥美先生はイタズラ好きの少年、川口先生は実直な青年といった対局にいる存在という印象ですが、宇野さんにはどのように映っていましたか?

今までそのように考えたことがなかったので、うーーーん。確かに、考えてみると、全くアプローチの違う先生でした。渥美先生には、いつもぶっ飛んでいることやオリジナリティを要求される。川口先生は常に基本と細部の洗練さを求められる。どちらも今の自分の根底にあるものだと思います。

宇野さんが入学されたのは2001年ということで、開学から間もなく10年目を迎える大学に入学して印象深かったことなどありますか?

入学して間もない頃、先輩方の作品を見た時にレベルの高さに驚愕しました。見たことがないような尖った研究の数々。
生産デザイン学科の先輩で、僕の尊敬する伊藤大聡(いとう・ひろあき)さんは「逆立ちを補助する器具」を作品にされていました。度肝を抜かれましたね!当時を思い返すと、学生も先生も“型にはまらない”人が多かったように感じます。デザイナーだからどうとか、そういうのとは無縁の空気があって、自分のやりたいことに素直になれる恵まれた環境だったと思います。

そんな環境だったので、生産デザイン学科でありながら、卒業制作は「集住を楽しむ100の仕掛け」という、建築とプロダクトをつなぐような研究でした。まさか建材メーカーで仕事をすることになるとは思いもしませんでした。

会社と自分がさらに成長するために

vik-玄関用マルチフック-2011

現在のお仕事について教えてください。

現在は森田アルミ工業株式会社の東京オフィスで仕事をしています。
昨年、建築設計部門を立ち上げ、研究開発部門の改革も行っています。
デザイナー1号として入社した会社で、今は開発や営業など含め、経営に関わらせてもらえるようになって、数字を見ることが多くなりました。
デザイナー1号として採用されたからには、ここで結果を出さなければ後がないと、それだけはわかっていましたから、悪戦苦闘しながら、とにかく雑用でも何でもやりました。
入社から14年が経ち、デザイナーではなくなりましたが、その経験からビジュアル化して考えられるという部分で、他の経営者に比べると強みになっているかもしれません。

fitbase-アルミ巾木-2017

企業に勤めていると経年によって立場が変わっていくのは仕方のないことと言えますが、デザイナーから一歩下がるとなったとき葛藤はありませんでしたか?

引くという意識は全くなかったです。会社を成長させるために今やるべきことは何か、それだけを考えていろいろな仕事を引き受けてきました。目的のためには、「自分が何者であるかにはこだわらない」のが自分の生き方なので。もうひとつ加えるならば、いつもやったことがないことをやっていたい。そういう飽き性な性格も影響していると思います。

「何者であるかにこだわらない生き方」名言をいただいた気がします。入社後、印象に残っているお仕事はありますか?

入社して初めて任された仕事がpidのロック機構の設計で、「pid4M 室内物干しワイヤー」という商品でグッドデザイン賞中小企業庁長官賞をいただいたことですね。
全く未経験の領域でしたが、エンジニアリングとデザインをトータルで取り組む方がイノベーションにつながると確信したことが、私の森田アルミ工業でのモノづくにりにつながっています。

pit-室内物干しワイヤー-2009
Alute-室内手摺-2020

大学卒業から時間を経て取締役となった今をどう感じていますか?

社会人になって約15年が経った今、同じ志をもつ仲間が増えて高い目標に向かって一緒に挑戦できているというに楽しさを感じています。時間はかかりましたが、妥協せずに地道にやってきてよかったと思っています。

コロナ感染がまだまだ予断を許さない状況ですが、この“コロナ禍”と言われる期間をどのように過ごしましたか?

昨年末に自社の設計で家を建てました。自分で開発した建材に囲まれた家で仕事をするって「どんだけ幸せ者やねん!」と、自分では思っています。コロナ禍で多くの人が自宅で過ごす時間が増えたことによって、“住空間をもっと快適にしたい”という人が増えました。建材に関わる以上は、その期待にもっともっと応えたいと思っています。

今後の展望について教えてください。

現在勤めている森田アルミの事業領域を一気に広げる大きな挑戦をしようとしています。私自身もデザイナー、マーケッター、営業という領域から経営者として自分自身を成長させたいと思っています。

最後に、東北芸術工科大学で学ぶ在学生のみなさんへ、メッセージをお願いします。

私自身が学生時代に一番知りたかったことは“どうやったら夢を実現できるか”ということでした。
私には卒業時に思い描いていた「なりたい自分」象がありました。それは「仲間と目標に向かって毎日楽しく仕事をする」という自分でした。至極シンプルなことですが、企業活動の中でこれをやるのは結構難しいです。
現時点での目標を実現するための私なりの答えは、
「自分自身の目標に向かって、やりたいことは後回しにせず、人目をさほど気にせず、一喜一憂もせず、とにかく継続する。」
コロナ禍の影響で、大学生活、就職活動がこれまでのようにはいかない大変な状況だと思いますが、一緒に頑張っていきましょう。

宇野健太郎

森田アルミ工業株式会社 東京オフィス:03-6300-6551

編集後記

「軽やかに変容する人」

宇野さんとは在学期間が重なっているのですが、極狭小世界の住人であった私には直接の接点はなく、ただ名前はチラホラ聞いていました。そう、確か、みんなは“ウノケン”と呼んでいました。
何を隠そう私も宇野さんが敬愛する渥美浩章先生のゼミに所属していた“渥美チルドレン”の一人です。さらに“逆立ち補助具”の伊藤大聡君とは同級生です。なんて偶然でしょう。渥美ゼミは「実験デザイン」と言われ、卒制も逆立ち補助具、ひたすらにめくる、最高に恥ずかしい距離感で半強制的に見つめ合わされる、映り込みなどなど、まぁ自由でした。(私は抱かれ枕を作りました。)

デザイナーなどの専門的な職業を望んだ場合、どこかでそこに固執してしまう気持ちがあります。私ですら、学んできたことを職業をしたい、どうしてもっとこだわって頑張らなかったのか、と今でも思うことがあります。そこでデザイナーから経営者になるということは、自分の描いた道筋を、過去の自分を置き去りにしていくような、そんな気持ちになったりはしなかったのだろうか…と思い宇野さんに問いました。
答えはとてもシンプルに返ってきて、少し驚きました。

子供のような渥美先生と、実直な青年のような川口先生の良いところをしっかりと受け取って、社会で活躍され、デザイナーから経営というステップアップをし、さらに成長したいと言葉にできる宇野さんは本当に素晴らしいなと思いました。
本質と自分の核を見失わなければ変わってもいいんだ、そんな風に改めて感じさせていただきました。

これからも流れのままに柔らかに変容しながら、よりよいモノづくりをしていただきたいです。

校友会事務局 カンノ(デザイン工学部生産デザイン学科 卒業)

森田アルミ工業株式会社 取締役 研究開発部長・宇野健太郎さんからのバトンを後藤田剛(ごとうだ・つよし)さんにつなぎます。

『後藤田君は同じ学科の同級生で、彼がいるだけで場がなぜか和む、不思議なオーラの持ち主です。なぜ彼を紹介したかというと、とにかく型にはまない芸工大らしさの象徴だと思ったからです。卒業後、イタリアを経て、現在はベトナムで日本のアニメなどのコンテンツを扱うビジネスを手掛けています。そう聞くと敏腕ビジネスマンのようですね。実際の剛は「これで大丈夫かな?」とこちらが心配になるくらい適当なのですが、見方を変えると完全にスケールアウトしている、そういうところをぜひ皆さんに知ってほしいと思い、バトンを渡すことにしました。』
[森田アルミ工業株式会社 取締役 研究開発部長・宇野健太郎]

TUAD OB/G Batonについて

東北芸術工科大学は1992年に開学し、卒業生は1万人を超えました。
リレーインタビュー「TUAD OB/G Baton」(ティーユーエーディ・オービー・オージー・バトン/TUADは東北芸術工科大学の英語表記の略称)はアートやデザインを学んだ卒業生たちが歩んできた日々と、「今」を、インタビューと年表でご紹介していきます。