寄り道しても目指すのは“編集”一択

20期生 2021.11.05

安孫子哲史

(株式会社ハッシュ 編集ディレクター)

第15回目は文芸学科の野上勇人准教授の紹介で株式会社ハッシュ 編集ディレクター・安孫子哲史(あびこ・さとし)さんをご紹介します。
安孫子さんは、芸術学部文芸学科に2011年に入学しました。ゼミ担当教員は川西蘭(かわにし・らん)先生、池田雄一(いけだ・ゆういち)先生でした。

芸工大に二度入学しました

学生時代の思い出を教えてください

実は僕は芸工大に二度入学しています。
高校卒業後は上京して華々しいキャンパスライフを送ることを夢見て、いわゆる有名私立大学を受験したのですが、ことごとく玉砕しました。地元に残ることを希望していた両親のすすめもあって山形の大学も受験したら芸工大に合格した、という感じです。なにを学ぶ大学なのかもよく知らないままに建築・環境デザイン学科に入学しました。これが一度目の入学です。

大学の予備知識なしに入学してくるとは、チャレンジャーですね

当初は精いっぱい大学生活を楽しもうと奮起したものの、その気持ちも空回りし、だんだんと自暴自棄になってしまって、製図の授業のときに爆発して教室から飛び出してしまいました。先生は補修講義をしてくれたり、いろいろと手をかけてくださいましたが、それでも途中で脱走してしまいました。自分が惨めに思えてくる状況に耐えられなかったんですね。 その後は両親に黙って大学をさぼり続けて、夜はバイト、休みの日はバンド時代の仲間との遊びに行ったり、SNSや深夜アニメに夢中になったり、そんなことに明け暮れる”仮面浪人”とは名ばかりの無為な日々を過ごしていました。なので、その年のセンター試験も失敗し「ただの単位をとっていない大学生」になってしまいました。

なるほど。ずいぶんとやんちゃな10代を過ごしていたことがうかがえますね。その生活からどうして改めて芸工大を受験しようと思ったのですか?

ちょうど芸工大に文芸学科が新設されるという話を耳にしたんです。これまで将来を考えたときに、漠然と“編集者”になってみたいという気持ちがあって、20歳のときにAO入試で文芸学科を受験し、合格しました。
入学して1年間くらいはプライドが邪魔をして全然馴染むことができず、授業も真面目に取り組むことができませんでした。一番焦ったのは2年次の後期で、必要単位がギリギリで留年しかけたところを、その当時学科長だった山川先生と副学科長の石川先生がかばってくれて、なんとか進級することができたんです。おふたりには感謝しきれません。 3年次からは川西ゼミに在籍してゼミ長を務めました。ゼミ内でディスカッションがあったのですが、学習塾でのバイト経験が役に立ち、そこでみんなの意見のまとめ役を買いました。そのことをきっかけに同級生のみんなが僕をゼミ長に推してくれて。はじめて同級生に認められた気がしましたね。そのあと池田ゼミに移り、本の読み方やものの見方や考え方を改めて一から教えていただきました。

学生時代はどのような作品を作っていましたか?

同級生の作品を見たり、いろいろな授業を受けるなかで、「自分が本当にやりたいことや発信したいことを表現できる媒体はなにか」と考えたときに、小説ではなく雑誌、それもサブカル系のミニコミ誌が一番適しているなと思い、仲間を募って『よわいこ』というミニコミ誌の制作をしていました。

とくに一番反響が大きかった企画が「キャンパススナップ」という企画です。大学の可愛い女の子にサークルやバイト、彼氏の有無まで聞いてスナップ写真を掲載しました。結構きわどい写真を撮ったりしていて、女の子たちに許可がもらえる限り好き放題やっていましたね(笑)。でも企画意図もきちんと考えていて、やっぱり同じ大学に通う女の子の普段とちがう一面を切り取った写真が見れるって、結構衝撃的なことだと思うんです。実際僕も生きてきたなかで、崇高で難解なコンセプトの芸術作品よりも、好きな女の子から来たメールとか、友人の何気ない批判の一言とか、そういう飾っていない直接的で俗っぽいものの方がダイレクトに心を動かすと感じていたので。「たんに同級生の女の子の写真を載せるだけでも、これだけ刺激的に見せることができる」ということを表現したくて企画しました。学生の特権をフル活用したからこそできた企画ですね。

とはいえ、カルチャー誌としての最低限のラインを保つよう、学内のバンドインタビューとか映画やマンガのレビュー記事なども載せていました。 ミニコミ誌の制作以外では、地元のタウン誌から制作補助のお仕事をもらって、地元バンドのインタビュー記事や本のレビュー記事を書いたりしていました。

ミニコミ誌『よわいこ』

ある日に思い描いた編集者の道へ(ちょっと遠回り)

文芸学科での学生時代はとても楽しかったようですね。

そうですね。大学で可愛い女の子を見つけてはゲリラ撮影したり、勉強会と称してサブカル作品の鑑賞会をしたり、編集会議と称して飲み会したり、撮影で夜中までドライブしたり、学生生活をエンジョイしていたと思います。
僕が学生時代にしていたことは、実務内容的には“編集の真似事“という感じでしたが、とはいえ魂を込めて雑誌を制作しており、精神的には“編集業の楽しさの本質”を味わえていたのではないかと思います。仲間たちとのこういう日々があったからこそ、今の社会人としての自分が成り立っているといえますね。文芸学科に入って、良かった!

卒業後すぐに編集の仕事につかれたわけではないようですが、今のお仕事に就かれる前は何をされていたのですか?

あまり就職活動をしていなかったので、内定をもらっていた地元のタウン誌を発行している印刷会社か、東京のアパレル企業かという選択肢でした。ファッションが好きだったことと、なにより東京に出てみたかったのでアパレル企業に入社することを決めました。
入社後は東京都町田市にある渋谷系レディースショップの販売員をしていましたが、半年経ったころに栃木県宇都宮市に異動になり、さらに半年後には千葉県市原市へ異動の話が出て、そのタイミングで退職しました。
アパレルの仕事をしながらも、出版・編集への夢を諦めきれなかったというのが大きな理由でしたね。
退職後は実家に戻ってフリーター生活の傍ら、本格的に出版業界を目指そうと思い就職活動をはじめました。ここでも怠け癖が出てしまい、就活に本腰入れる時間はかかってしまいましたが、なんとか中学生のテストをつくる出版社に内定をもらってもう一度上京することができました。 やっとの思いで念願の出版業界に入れたものの、そこが酷いパワハラが横行する会社で……。自分のなかで1年間という期限を決めて耐え抜き、そのあいだに転職活動をして現在の制作会社に辿り着きました。

紆余曲折あったのですね。では改めて、現在のお仕事について教えてください

現在勤務している制作会社では、外資系の出版社からの依頼で、シリーズものの雑誌の制作・編集をしています。ブロックでロボットを組み立てながらプログラミングを学ぶシリーズを筆頭に、占いグッズを集めながら世界の占いについて学ぶシリーズ、第二次大戦期に活躍した日本の軍用機を組み立てるシリーズ、世界の古い貨幣を集めながら歴史や文化を学ぶシリーズなど、ニッチながらも確実に読者層がいるテーマを扱った雑誌をつくってきました。
某世界一有名なアニメーション映画&テーマパークのミニチュアハウスをつくるというシリーズも担当しましたが、これはかなりヒットしたようです。
ほかにも子ども向けのマンガを編集したり文学全集をつくったりと、幅広いジャンルの制作に携わっていますね。いわゆる通常の雑誌のように最新情報やトレンドを追いかけるのではなく、マニアックな世界を延々フォーカスする媒体なのですが、僕自身トレンドにはあまり興味がないので、けっこう性に合ってて好きです。
実際に商品を販売する際は大々的に広告を打つので、テレビCMや広告などのPRに携わることもあります。 最近では、小さいころから憧れていたスーパーヒーロー番組の主演俳優に直接インタビューするお仕事なども任せていただきました。ほんとはNGなのですが、サインもらって写真撮らせてもらって、感動して泣いちゃいました。

携わったシリーズ例

編集者という立場を最大限に使って「楽しい」を生み出す

取り上げる題材が多岐にわたっていますが、取り組む際に心掛けていることはありますか?

まったく興味のないものを扱うシリーズの担当になることもあるので、仕事に取り組む際に一番大切にしているのは、「どういう情報の切り取り方/発信の仕方をしたらファンが喜ぶか」をきちんと考えることです。きちんと扱う媒体のファンになって、読者がどんなトピックに興味があって、なにを楽しんでいるのか、つまり“萌えポイント”はなにか、ということを明確化することですね。なので、シリーズが始まるときのリサーチには一番力を入れます。もちろんクライアントである出版社が「どのようにこのシリーズを売り出したいか」ということをきちんと理解する、ということが大前提ですけど。 逆にそういったことを考えず、ただ仕事だからと流れ作業で雑誌をつくっても、決して読者に響くものにはならないと思います。なにより自分自身、やってて全然面白くありませんし。

扱う対象物のファンになるために、これまでどのようなことに取り組んできましたか?

例えば某世界一有名なアニメ映画&テーマパークのシリーズの制作を担当したときは、当初全く興味がなく、それまでほとんど映画も観たことがないという状態でした。そこで休日を使って映画を観たり、実際にテーマパークに出かけたんです。そうすると自然に「どういう情報をどのように発信すると読者に喜ばれるか」「どういう書き方やデザインをすれば読者に伝わるか」などが次第に理解できるようになりました。ちなみにこういう場合、映画代やイベント代などはあえて経費で落とさないようにします。エンタメの楽しさは、自分でお金を使うことで初めて味わえるものだと考えています。

安孫子さんが学生時代にやってみたいと考えていた“編集”を仕事にされてみて、実際はいかがですか?

編集業は、作業だけ切り取ってしまえば出版社や監修者、デザイナー、ライターなどのあいだに立つ“小間使い”的な役割だと思っています。人のあいだに立つ立場だからこそ、その関係の軋轢に苦労することもあります。その一方で編集者が「こうやって面白くしよう」「こんな魅力を伝えよう」と提案し、中心となって取りまとめていくこともできます。本当に、見せ方ひとつだけで全然印象が変わりますからね。
あと、編集長からは「編集者という生き物は見出しでメシを食うもんだ!」と教えられたので、その点にも気を付けていますね。でもうまくいくと、日本中の読者に「こんな楽しいシリーズができたよ!」と届けることができます。 良いものができるにはなかなか時間がかかりますし、正直残業も休日出勤もかなり多いですが、めちゃくちゃおもしろい仕事ですよ。

なかなか収束が見えないコロナ禍ですが、どのように過ごしていましたか?

個人的にはもともとインドア派なのであまり影響はないのですが、夜に飲み屋が閉まっているのは辛いかなぁ。 ここまでの話でお気づきかと思いますが、元々だらしない性格で、家にいるとサボりがちになってしまったり、夜更かししてしまうので、なるべく出社するようにしています。みんなの生活が巣ごもり傾向にあるので雑誌の需要が増えているようですし、新タイトルの開発にも力を入れているところです。

最近気になっていることなど、あれば教えてください。

近年“懐かしの~”や“レトロ”というキーワードにフォーカスした商品がかなり発売されていますが、よりそういった感覚を掘り下げた商品を企画できないかと考えています。僕自身、時代は進む必要はなく「ずっと昭和~平成でいいんじゃないか」と考えていますが、けっこう同じ感覚の人はいるんじゃないかと思っています。僕は平成生まれですが。

今後の展望について教えてください。

大学時代に一緒にミニコミ誌制作をしてくれたライター、イラストレーターの友人たちともう一度雑誌をつくるのが夢です。90sのミニコミ誌のような雰囲気のものがいいなあ。できればミニコミ誌じゃなくて商業誌がいいです。山形にあったBunBun堂(現在のヴィレッジヴァンガード)で育ったので、ヴィレヴァンに自分のつくった本が置かれたら死んでもいいかも! サブカルチャー好きが高じて、サブカルの聖地・中野~高円寺近辺に住んでいるので、その環境も活かせたらいいかな。
そのためには出版社の編集長になるのが近道かな? と考えているのですが、それはなれたらいいな、くらいの気持ちです。 なので、目先の目標としては「決してこの業界を辞めないこと」と「みんなを辞めさせないこと」くらいかと考えています。

最後に、東北芸術工科大学で学ぶ在学生のみなさんへ、メッセージをお願いします

学生時代、僕よりも優秀で、前向きに制作をしていた友人たちが、さまざまな理由で夢を諦めていたり、くすぶっていたりします。僕自身、大学では専門的なスキルをほとんど身につけられませんでしたが、こんな僕でも自分がやりたいことを実現することができたのは、ひとえに周囲に頼り、助けてもらったからです。
僕の場合は、学生時代はよろしくない素行から先生から“不良”のレッテルを貼られていたわけですが、先生はそんな僕のことも諦めずにいてくれました。苦手なことやできないことは隠さない方がなにかと得だと思います。
そのためには、自分が本当に好きなものはなにかを見極めて、自分がなにをしたいのかを周囲に知ってもらうことがまず第一歩だと思います。
俗っぽい言い方をすれば、自分の「キャラ」を周囲にアピールすることが一番の近道です。その結果サークルでもなんでも居場所を見つければ、自分ではなんにもできなくても必ず手助けしてくれる先生や仲間が見つかるし、どんなに辛いことがあっても必ず立ち直っていけるかと思います。自分の好きなものから決して逃げないことと、協力・援助してくださる方たちに最大限のリスペクトと賛美を欠かさないようにすることが大切ですね。 最後に、もし将来メディア関係の仕事に就きたいと思っている方がいたら、それは全然難しいことでもなんでもありません。こんなめちゃくちゃな経歴の僕でもなれたんですから。

株式会社ハッシュ 編集ディレクター・安孫子哲史

株式会社ハッシュ

編集後記

「潔い諦めと諦めないが混在している人」

今回、安孫子さんは文芸学科の野上先生にご紹介をいただきました。(野上先生、その節はお世話になりました。)
大学には現在、16学科・コースありますが、全ての学生と私がつながっているわけもなく、「文芸学科卒業生で面白い人、いませんか?」というお願いに対してご紹介いただいたのが安孫子さんだったというわけです。
野上先生に仲介をお願いし、連絡を取り、いざインタビュー(現在はコロナの関係で文章でのやりとりですが)をしてみると、なかなか暴れん坊な返答が来るじゃないですか!(笑)お互い納得のいく、齟齬のない表現にするにはどうすればよいか…と、少し私の心の懐で温めました。(笑)
安孫子さんの中にある希望は“編集”一択。そして“東京に行きたい”というシンプルな欲求。見事なまでにその希望と欲求に忠実に、途中寄り道をしているようですが、結局のところそれだけを目指して動いているようでした。

無知のまま入学した芸工大建環から文芸学科に入り直し、その時なんとなく“編集”という仕事を思い描き、遠回りしたり、憤慨し、鬱屈した日々もあったようですが、それでも今ここに辿り着いていることは、安孫子さんの努力あってのことです。(途中で安孫子さんを投げ出さなかった先生たちの努力は言うまでもありません。)

安孫子さんは取材までのやり取りの中でこう言っていました。※原文のままお届けします。
「このところ同級生にも夢を諦めてしまいそうになり相談を受けるケースが多々あり、在学生だけでなく、そういった挫折しかけている卒業生にも届けられればと考えております。そのためこれまでのほかの卒業生の方々の内容とはかけ離れてしまう部分も多いのですが、なんとかそのあたりの意図をくみ取っていただけますと幸いです。
せっかくこんな機会をいただいたのでフル動員させて取り組みたいのです。」
安孫子さんの気持ち、表現できているでしょうか?

校友会事務局 カンノ(デザイン工学部生産デザイン学科 卒業生)

TUAD OB/G Batonについて

東北芸術工科大学は1992年に開学し、卒業生は1万人を超えました。
リレーインタビュー「TUAD OB/G Baton」(ティーユーエーディ・オービー・オージー・バトン/TUADは東北芸術工科大学の英語表記の略称)はアートやデザインを学んだ卒業生たちが歩んできた日々と、「今」を、インタビューと年表でご紹介していきます。